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映像人類學、コーヒー、スシ、苺とチョコレート

朝、学会の分科会参加者が全員、振込を完了してくれた
というメールを受け取り、やっと一安心する。

この日は夜に、ピノチェト時代、カナダに亡命していた
年配のチリ人女性と会うかもしれない、ということで
しかも彼女が、話しだすと止まらない、と聞いていたので
備えて家で『映像人類學』(1979)という本を読んだ。
そもそも、読まないといけない本なのだった。
12月に、「こんなの持ってる?あげる」と、映像ディレクターの
Iさんにいただいて、ちょっとずつ読んではいたのだが
訳がこなれていないのでなかなかすすまなかった。
でも、しばらく読んでると、慣れてきた。
しかも、実際に面白い作品を撮っているルーシュや
マクドゥーガルの書いていることは、やはり面白い。

朝は黒パンに、昨日買ったUlmoのはちみつ(スーパーで
これはなんだ?と友人と悩んで、買い物をしているおじさん
に聞いたら、「それが一番うまい」と勧められた)を
つけて、ハムチーズサンドにする。
うまい・・・・

昼は一昨日買った豚肉を、セロリ、人参、パセリを入れたトマトソースで
煮込み、前日見つけた玄米とともに食す。
玄米、食べるの久しぶり。

物書きと読書でかなり肩がはってきたので
iPodをつけて近所を歩いてみる。
おかげでガソリンスタンドに併設されたコーヒーショップで
cafe espresso americanoというコーヒーが
日本のブレンドコーヒーにあたるものだということを
発見。
だいたい、エスプレッソか、ネスカフェか、しかなくて
前者は砂糖いれないと飲めないけど、そうすると気持ち悪くなるし
ネスカフェはなにいれなくても気持ち悪くなる。
ひさびさにブラックでおいしいコーヒーを飲んで
すーっと、頭が晴れるような爽快感が。
ああ、中毒ですなあ。

帰宅した友人と、前日買ったビールをあけて
アメリカのアホなテレビ番組(娘のBFが気に入らない両親が、
ふたり、娘に合いそうな男性をみつくろって、デートさせ
その様子の中継を、3人そろって居間で見る、そして
娘が最後に誰かを選ぶ、というもの)をみて笑う。

友人が親しい女性ふたりのプレゼントに
紙おむつを買うのに手伝う。
職場で掃除をしている女性たち。
以前の職場では、こういう人たちと口をきくこと自体、
するものではない、と注意されたらしい。
でも相変わらず、掃除の人とも、立場上は、彼女を「ボス」や
「貴方」(usted)で呼ぶべきである人とも、付き合い続けている。
そこまで撮って、録画を終えたあと、彼女は続ける。
「チリでは私にとって、専門家とのほうが付き合いがむずかしい。
 どうしてかうまく言えない。理由はたぶん、ひとつだけではない 
 と思う」
あー、いまの撮りたかったけどなあ、と思いつつ、カメラをおろす。

で、近所のチリ人がやっているスシバーに行く。
どうもいまチリでは、ひところのアメリカと同じく
スシはおしゃれでヘルシーで、いかした食事として
人気が高いらしい(値段も)。
ようやく、おごらせてもらう。
いわゆるカリフォルニアロール系だけど、
チリで食べるんだったらこっちの方が
握りよりも断然、おいしいと思った。
友人も満足。
店とお客さんの雰囲気もよかった。

帰宅してがちゃがちゃとチャンネルをまわしていたら、
かの名作『苺とチョコレート』が始まったばかりだった。
おもわず、ふたりで見入る。
そういえばキューバの人と見るのは初めてだった。
みんな、何度も劇場で観たらしい(安いしね)。
いくつか、みんなが真似た台詞になるとけらけら笑ってた。
Viva socialista democratica(「民主的」社会主義、万歳)という
言葉には、いまはそうでもないかもしれないけど、
あの時代には・・・と、改めて息をのんだ。

私が94年にこの映画を見たのは、留学中のアメリカのサンディエゴで、
改めて観ると、ほとんどのコードがわかってなかったし、
いろんなものを聞き取れていなかったことに気づいた。
それでも、よい映画だと思った。

そして、いまみても、本当に、よい映画だった。

ちょうどこの日の朝、スイート・アバナ(邦題「永遠のハバナ」)について
書いたものを読み直して、ちょっと書き直したところだったけど
やっぱり、ドキュメンタリーとは逆に、現実に影響を与えた
劇映画として、『苺とチョコレート』は本当にすばらしい。





『普通の生活』(ハバナ日記より)

 Suite Habana(スイート・アバナ)という映画がある。昨年、3月、映画関係者だけへの公開にもぐりこんで観ることができた。かなり後になってから公開され、2003年度のラテンアメリカ映画祭では数々の賞を受賞した。監督はフェルナンド・ペレスという、すでに著名な人物である。私がこれまで彼ので見たのはLa Vida es Silvar(人生は口笛)という映画だけである。面白いけど、ちょっとシュールすぎるにゃ、というのが感想。
スイート・アバナは、最初は外国のテレビ番組の特集の一環として作り始められた。登場人物は、障害をかかえる子供とその父と祖母。靴の修理屋。女装してパフォーマンスする男性。昼は家の修繕に力を注ぐバレーダンサー。キューバ系アメリカ人女性に恋をし、結婚してアメリカに渡る男性。マニ(ピーナツ)を売る高齢の女性。などなど。
 観客は、彼らが実在するのかどうか分からないまま、映画を観続ける。フィクションなのか、ドキュメンタリーなのか?ともあれ、映像と音楽は美しい。最後にそれぞれの名前と、彼らの職業、将来の夢が、文章で表れる。登場人物は、実在する素人の人々だが、ペレスのために自分たちの生活をカメラの前で演じてみせたのである。

 「スイート・アバナを観た?」と、20代から30代ぐらいの、私と同年齢のキューバ人が問うとき、そこにはなにか、特別な響きがある。ただ「あの映画観た?」と聞くときの批評的な響きとは、あきらかに違う。彼らがあれを語るとき、「映画」について話しているのではないのだ。「うん、me gusto cantidad(すごく気に入った)」。ある者はそのまま夢見るような顔になって黙り、ある者はそれから彼・彼女なりの解釈を語り始める。どちらにせよ、彼らがそれを気に入ったのは、「腑に落ちた」という感覚があるからだと思う。

 スイート・アバナが映し出す人々とその生活は、現在のキューバのテレビドラマでもニュースでも、映画でも、ずっと捨象されてきた、ただの、ありきたりの人々の風景である。しかし、それはずっと、見ることも、語ることもなかったのだ。何か問題があれば、それはすぐに「闘い(batalla)」と称され、マイクを向けられる「一般の人々」は、革命の求める文法でインタビューに答える。公的に「闘い」と称されないものは、テレビには映されない。貧困や犯罪といった社会問題は、キューバにはないかのように、ニュースは構成されているのだ。ドラマでは、人々は気軽にビールやコーラを買って飲み、レストランで食事し、車に乗って移動し、別荘で愛人と密会する。だがそんなことができるキューバ人は、ほんの一握りしかいない。映画では、経済危機以降の問題が、悲喜劇として描かれてきた。外国人に近づこうとするのは、若く機転の効く魅力的な女性や男性であり、そこには身を切るような恋愛感情はない。家族もみんな、彼か彼女がうまいこと外国人を誘惑して、お金を持ってきてくれることを期待している、というような喜劇だ。

 スイート・アバナの人々は、歩く。自転車に乗る。10ペソのタクシーを拾う。医者でさえ自転車に乗る。自転車で、あの郊外の遠い空港に乗りつけ、国を去る兄に別れを告げる。兄は、キューバ系アメリカ人の女性に恋をした男性だ。老いた母親を始めとする家族は、みな、言葉もないまま涙ぐんでいる。去る彼も、小さなボストンバッグひとつで、涙ぐんでいる。彼は一日を、ロシア製のおもちゃのような扇風機がかたかた鳴る、簡素な部屋で過ごした。生真面目な顔つきと、痩せた体や服装から、彼が、気楽に女性を誘惑できるようなタイプの男性ではないことが分かる。医者は空港から帰ったその足で、小さな女の子の誕生日パーティーに、ピエロとして登場する。キューバの事情を知らない人にはわからないかもしれない。医者でも、給料では生活できないから、稼ぐためにしている商売なのだ。どんな悲しいことがあろうとも、化粧をほどこし、おどけてみせなければいけない。
 バレーダンサーの男性は、20歳だが、父親がいなくなってから、一家の稼ぎ頭になったという。優雅に踊る彼の姿からは、昼間、彼が、雨が降るたびに水びたしになる家に住んでいるとは想像できないだろう。帰宅してから飲むのが、コーラでもビールでもなく、ペットボトルに入れて冷蔵庫で冷やした水だけだとは、思わないだろう。でもそれが、キューバの普通の生活なのだ。

 そして私は気づく。
 
 30代の友人が言ったように、ここで映し出される風景は、彼ら「失われた世代」のものなのだと。
 
映画には年配の人々も登場するが、彼らは、革命が勝利した瞬間には、自分たちの隠されてきた真実が明るみに出た、という感覚を味わったことがある人々だ。それまでは「隠れて」活動してきた人々が、あるいは「隠れて」フィデルたちの放送するラジオを聴いていた人々が、表立って支持を表明し、万歳を叫ぶことができた。

 「失われた世代」の人々は、革命の勝利を、自分たちのものと感じることができない。それはすでに与えられたものであり、生まれもって感謝しなければならないものである。かといって少年期に、資本主義国のように、貧富の差を当たり前のことのように教えられたり、働くことを当然のように教えられてバイトをしておこづかいを貯めたり、という経験をしていない彼らには、現在のドル経済に慣れた10代の若者たちのような感覚もない。とはいえ、教えられてきたようにキューバでまともに働いても、生計を立てることができない。どうしたらいいのかよく分からない、というのが正直なところなのだと思う。

 スイート・アバナに表れる人々も、そんな人たちだ。自分なりの商売をしてはいるが、暮らし向きは質素だ。そこに表れる家々は、ドラマや映画に出てくる、新しくきれいなつくりものではない。ペンキがはげおちてくすんだ、「うちと同じ」家だ。飲むものは水だけで、食べるのは家で、見るのは、いつも同じものが映し出されるチャンネルが3つしかないテレビだけだ。しかもそれを見ているのは、もう口も聞けないお年寄りばかりだ。

 口も聞けない、といえば、登場人物たちの声は一切聞こえない。話しているようすは見えるが聞こえない。聞こえるのは、主要な人物ではない、近所の誰かが、別の誰かを呼び出すために大声で名前を呼ぶ声だけである。そして、バンボレオというバンドの歌である。 “Déjame vivir en paz” (平穏に生活させてよ)と、女性ボーカルは、彼女を振ったのにまた戻ってきた男性に歌う。でもそれは、あたかも、ここの生活すべてに向けて歌われているかのようだ。Quiero vivir en paz(普通の生活がしたい)というのは、「失われた世代」の人が、よく口にする言葉だ。いつもいつも、政治に干渉される生活ではなく、働いてお金を貯めて、好きなものを買ったり、好きなことを書いたり読んだりすることが許される、普通の生活。

 お年寄りでもまだ気力のある人は、こっそりラジオのチューニングを、地下ラジオに合わせる。それは、フィデルの声ではない。マイアミの亡命キューバ人が流す、反フィデルのそれだ(そうは明言されないが、観客はみなそう解釈する)。映画の最後で、彼が引退したマルクス=レーニン主義哲学の教授だったことが分かる。

 お年寄りで元気そうでもないが、まだ立つことのできる高齢(80歳ぐらいだったと思う)は、マニを売り続ける。黙ってピーナツを買い、ローストし、白い紙を丸めてピーナツを詰めて売る。すっかり衰え、外に出られない夫と黙って食事をする。壁には、若かりしころの二人が微笑む写真が貼られている。彼女の答えが映画の一番最後に現れる。
 「夢はもう、ない」。
 映画館で仕事する女性によれば、その後に起こる拍手は、『苺とチョコレート』をしのぐものだったという。なぜか。それは、ある意味、希望を語り続け、夢を見続けることを強制する革命に対して、もっとも反逆的な、もっとも痛切な批判なのだ。そして、登場人物は、『苺とチョコレート』のような小説家を夢見る共産主義者でも、抑圧されながらも優雅なアパートに暮らす同性愛者でもない。黙って働き、生活する、「わたしたち」なのだ。
by chinaloca | 2008-02-25 23:34 | 人類学